27.浪岡城跡
 なみおかじょうあと



年代

中世後期の浪岡北畠氏の居館として評価されてきましたが、12世紀後半から「館」と想定される遺物が出土していることから、中世前期からずっと城館機能を持っていたことが明らかになりました。15世紀後半〜16世紀末までの北畠氏居館を主体とするものの、北畠氏の浪岡入部以前から津軽山辺郡の中心的な場所であったことが想定されています(『青森県史』資料編考古4)。

解説

16世紀前半に最盛期を迎える浪岡北畠氏は、浪岡城に拠って16世紀半ば過ぎには北津軽・外浜北半分を領有しました。浪岡城は広大な台地に幅の広い水堀をめぐらした、南部氏や安藤氏系の城館とはタイプの異なるものであったといいます(長谷川成一ほか『青森県の歴史』)。

浪岡城は東側から新館・東館・猿楽館・北館・内館・西館・検校館のほか、大豆坂沿いには無名の館など8つの独立した平場をもっています。そしてこの平場の遺構は、掘立柱建物跡と竪穴建物跡、井戸跡がセットとなり屋敷単位の集合体であることが大きな特色であるといいます(『青森県史』資料編考古4)。

浪岡城は天正6年(1578)に大浦為信によって攻め滅ぼされますが、大浦氏は下国安東氏勢との戦で苦境に陥り、そこで南部氏と和睦して浪岡城を引渡したともいわれています(前掲『青森県の歴史』)。

なお、浪岡城跡は昭和15年(1940)2月10日、国史跡に指定されています。

場所


制作:青森市民図書館歴史資料室