10.新城跡 しんじょうあと
北奥の城館のなかでは例外的に発達した戦国城郭であったとみられます。
新城の地は浪岡から津軽坂を越えて油川湊に至る奥大道を眼下に押える、交通・軍事の要衝に位置します。そうした場所に構築された新城は、城域の一部は破壊され城の中心部に照法寺が建つ以外は、ほぼ手つかずの状態で遺構が残されているといいます。
新城に関する記録としては、天正13年(1585)4月の浅瀬石城の戦いに勝利した同城主千徳政氏は、「外ノ浜内新城・沖館」など7000石余を大浦為信から安堵されたと弘前藩の正史「津軽一統志」は伝えます。ここから、新城にはここを本領とする領主がいてその居城として城が築かれていたのではなく、大浦氏のような外からの勢力がいわば直轄領として支配した場所で、そうした外からの勢力の支配拠点として新城はつくられたのではないかとの見立てがあります。
つまり、津軽地方の大名が外浜支配の拠点のひとつとして設けた城であり、とくに津軽と外浜を連絡する交通路を掌握することがおもな機能でなかったかを推測されています。
制作:青森市民図書館歴史資料室
|